このドラマは2015年制作ですが第1話を抜かせばテンポも良く、どんでん返しも何度もありハラハラ、ドキドキ、そして泣ける良作です。主人公の完全記憶能力?はあくまでツールで設定に振り回されすぎないのもいいところです。そのうえアルツハイマー症候群と完全記憶能力を対比することで「記憶」と「自我」の関係にまで少し踏み込んでいます。
人間は生活の中で記憶を積み重ね、内から自己を形成していきます。また同様に外の世界の出来事が自己の形成に大きく関わっています。
「記憶」はこのドラマの主題の一つですが、「記憶」を失っても人間には何かが残ります。例えば文字を書く練習の記憶を大部分は忘れますが、記憶は「文字を書く能力」として変換するように、愛する人の記憶を失い、思い出すことができなくなったとしても人間の中でその記憶は自己の中で何かに変換されるのです。そしてその変化する何かを受け取る存在が「私」です。
このドラマでは主人公と盟友になる弁護士との因縁、悪人との因縁もモチーフの一つです。この運命論的な世界観は、どこか三島由紀夫の四部作「豊饒の海」も想起させます。「豊饒の海」では輪廻転生がモチーフとして描いていますが、このドラマでも因果応報が描かれているので、間接的に輪廻転生につながっていると言えなくもありません。
因縁を通して主人公が弁護士になるように、また悪縁を通して敵が悪人になるように、私たちも人生の出来事を通して何者かになります。ここまでは普遍的なテーマです。ただこのドラマの舞台設定には極端な構図が見えます。「お金持ち」と「貧乏人」、「善」と「悪」、「家族愛」と「自己愛」というような構図です。
韓国ドラマには余りにも同じような構図が出てくるので少し辟易するところもありますが、その背後には「恨」の文化があるのかもしれません。
李圭泰氏は、『韓国人の情緒構造』(新潮選書、1995年)の中で、次のように述べている。
“心の中に傷をじっとしまっておく状態が「恨」なのだ。・・・(中略)・・・原義の「恨」は怨念を抱く状態、そして怨念を抱くようにした外部要因を憎悪し、またその怨念を抱いた自分自身のことを悲しむ、そうした属性をも含んでいる。
・・・(中略)・・・このような怨念の蓄積は韓国人の「恨」に別の意味を派生させた。韓国人の「恨」を構造的に調べてみると、怨念以外の被害者意識が絡んでいる。韓国人は、国民は官憲の被害者であり、貧しい者は富む者の被害者であり、野党は与党の被害者であると思い込んでいる。“(126〜127p)。
韓国人元同僚と話しましたが、彼の意見でも大抵「お金持ち」は韓国ドラマでは悪人側として描かれます。こういった対立構造をドラマの中で必ずと言っていいほど描くのは、「恨(ハン)」を募らせている庶民の感情に訴えかけて視聴率を取るためなのかもしれません。たとえ物語の上でも悪に因果応報が下れば、「恨(ハン)」はカタルシスを迎えます。
韓国の経済構造はいびつで、韓国4財閥(サムスン、ヒュンダイ、LG、SK)は韓国のGDPの60%を占めています。また社会保障費も低く、消費者や従業員よりも株主を優先する搾取構造になっているのも問題で、国民の大半が「恨(ハン)」を常に蓄積させるような構造になっているために、こうした物語が制作されるのかもしれません。
韓国ドラマではこの「恨(ハン)」が安易に変わり映えしない設定として表現されていてやや退屈に感じますが、もしも他の表現方法を取って芸術的に表現されるなら、どれほどの怒りの表現や悲しみの表現が生み出されるのでしょうか。そんなことを思いました。